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【第3回】「死んだ学力」を回避する|「高い学力の生徒」と「低い学力の生徒」の差

以下、「死んだ学力」P29~32より引用する。


*「高い学力の生徒」と「低い学力の生徒」の差*

「学力」の低さは、「読む・聞く・話す・書く国語力」の低さと同じだということがわかった。逆にいえば、「読む・聞く・話す・書く国語力」を上げることができるなら、自ずと「学力」も上がるということになる。

では、どうすれば「読む・聞く・話す・書く国語力」は上がるのか。

それには、「高い学力の生徒」と「低い学力の生徒」の「読む・聞く・話す・書く国語力」の差を知らなければならない。そこで、前述した「読む・聞く・話す・書く国語力」を構成する四つに再び目を向けてみよう。

① 活字が読める(活字の意味を理解できる)

② 他人の話をしっかり聞くことができて、それを理解できる

③ 自分の考えを言葉にして、他者(特に目上の人間)と会話ができる

④ 自分の考えを文法的に正しい文章にして表現できる

経験則からだが、「高い学力の生徒」はこれらの要素を万遍なく満たしているか、一つが飛び抜けて高い傾向が見られた。

それでは、いかにして彼らはこれらを身につけたのだろう。

私は「高い学力の生徒」に接していろいろ話を聞くうちに、彼らにある共通点が存在することに気がついた。それは日常の生活習慣に根ざした、次のようなごく基本的なことだった。

○ 本を定期的に読む

○ 親などの大人と〈知的な〉会話を頻繁にしている

以後、私は「高い学力」の中学生に絞り、その二つの項目について意識的に質問するようにしてきた。対象を中学生に限定したのは、「学力」は中学生でほぼ固定するという理由からだ。それについては詳しく後述する。

「本を定期的に読むか」という質問には、例外なく全ての「高い学力の生徒」がイエスと答えている。

ここでいう本とは当然活字のことだが、興味深いのは、彼らが本を読むのは現在のことではなく、過去形になっている点だ。

彼らは、小学生の頃は本をよく読んでいたが、中学に入ってからは勉強や部活で忙しくなったため、読む暇がなくなったと一様に口を揃える。もちろん、現在も本が大好きで毎日読んでいると話す生徒もいたが、それは全体から見ればほんの一握りに過ぎなかった。これは小学生での読書習慣が、「学力」に大きな影響を与えていることを示唆している。

こうも言えるだろう。

「高い学力の生徒」は、小学生の間に読書の習慣を身につけ活字に親しむことで、本人も気づかないうちに、着々と「読む・聞く・話す・書く国語力」という「肥えた土」を「学力の下地」として作り上げていった。

その「肥えた土」のおかげで、学校や家庭や本から拾う知識という「種」を余すところなく発芽させ、それが中学になると「高い学力」として固定した──。

知識という「種」の発芽は、その知識が自分のものとして定着し根づくことを意味する。小学校から「読む・聞く・話す・書く国語力」という「肥えた土」がある生徒と、その国語力がない生徒とでは、根づいた知識の量に雲泥の差がある。

ここで最も注目すべきなのは、小学生での読書習慣が「学力」の質をほぼ決定することだ。これは、裏を返せば、「学力」は「中学生まで」という期限つきだということでもある。

見方を少し変えよう。

「中学生まで」の時期は、成長期とちょうど重なり合う。成長期は、体力も「学力」も、そして性格的資質も発展途上の時期だ。その時期には、肉体的要素である体力は別として、「学力」と性格的資質は共に精神的な要素であるため、互いに密接に絡み合っていると考えられる。「学力」は、集中力・根気・慎重さなどの性格的資質があって始めて上がるものだからだ。

一方で、「学力」の向上が、生徒の性格的資質を高めるという見方もできる。

初めは集中力・根気・正確さがなくても、「読む・聞く・話す・書く国語力」を身につけていく過程で、自然に集中力・根気・正確さなどが鍛えられるようになるという考えだ。

これは「卵が先か、ニワトリが先か」の議論と同じで、どちらが正しいと断定はできない。だが、性格的要因と「学力」が密接に結びついていることだけは確かだろう。

実際、「高い学力の生徒」は「大人」だ。その「大人」は人間的に優れているというのではなく、集中力・根気・慎重さなどの「物事をやり遂げる」資質が備わっているという点で、社会的に要求される「大人」の姿に近い。


(続く)

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