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【第4回】「死んだ学力」を回避する|「学力=テストの点」という錯覚

以下、「死んだ学力」P50〜54より引用する。


*「学力」があるということと「テストで高い点を取れる」ことは違う*

私は生徒の親と学力カウンセリングを行う時に、決まって次のように言うことにしている。

「子供の学力をテストの点で決して判断しないで下さい」

生徒の「学力」をテストの点で判断するのは、写真で人格を判断することと等しい。「目に見える」テストの点は、「目に見えない」学力を正確に映し出しはしないのだ。それほど「学力」とテストの点には隔たりがある。

学力とテストの点は違う──。

この単純で明快なことに対する無知が、現在の「学力低下」を引き起こしたといっても過言ではない。

テストで高い点を取るためには、「学力」とは別の「得点力」と呼ばれる力が必要であり、テストで高い点を取るためには、「学力」とは別の「得点力」と呼ばれる力が必要であり、それがないとテストで高い得点を上げるのは難しい現状が構造的に存在する。

「学力」と「得点力」の関係を、再びスポーツにたとえてみよう。

筋力トレーニングやランニングといった基礎体力づくりはスポーツには欠かせない。試合で活躍するためには基礎体力は最低条件であり、それがなければ技術を習得することができないからだ。この「技術」とは試合で得点を取る力のことであり、それは練習試合に数多く出場するうちに「慣れ」として身についていく。

ここで述べている基礎体力は「学力」、本番の試合で点を取る力は「得点力」にあたる。要するに、いくら「学力」があってもテストで点を取る力は別ものであり、「学力」と「得点力」は似て非なるものなのだ。

だが、私はこの「学力≠得点力」の現状が必ずしも悪いとは思っていない。「学力」を客観的かつ同時大量に考査する方法としては、「テスト」は適正であると思う。「得点力」も「学力」の一部と考えるのも間違いではない。「学力」が広義の「学力」である以上、「点を取る方法」を学ぶことも「学力」の一部であるという論理は成り立つからだ。

問題は、前述したような「テストで高い点を取る死んだ学力の生徒」が、果たして本当の意味での「点を取る方法」を学んでいるかどうかにある。

残念ながら、彼らは「点を取る方法」を「学んで」いない。ただテストに出る問題を「暗記」して「思い出して」いるだけだ。

スポーツは基礎体力の上に「得点力」が成立しているが、勉強は違う。もちろん、「学力」がゼロにもかかわらず、テストでは常に百点ということはあり得ないが、少なくとも現行の一般的なテストが「死んだ学力」でも高得点を取れるようになっているのは間違いない。

この原因は、「学力」は「得点力」には大きな影響を及ぼしながら、「得点力」は「学力」にほとんど影響を与えないという一方通行の独立性にある。

例えば、宇宙に興味があって、本をたくさん読んでいる子供は、中学で理科を学んだ時にすんなりその知識を吸収できる。この知識は機械的に暗記した知識とは違い、理解を踏まえたものなので、その範囲のテストでも高い点を取ることができる。自分で「学んだ」力が得点力に影響を与えている典型的な例だ。

逆に、その分野で百点を取った生徒が、本当に宇宙のことを理解して「学んで」いるかといえばそうではない。「試験に出る」部分をひたすら暗記すれば、百点に近い得点は取れてしまう。それらが、地球は太陽の周りをまわっていることを知らなかったり、植物が生きていることを知らなかったとしてもだ。

彼らはそのテストで正解した問題も、単に理解しないで暗記しているだけだから、なぜその答えになったのか自分の言葉で説明できない。それは、彼らの知識が単にテストで点を取るためだけの「死んだ知識」だからだ。これは、「得点力」が「学力」に影響を与えない事例の一つに数えられる。

学生時代は優等生だったにもかかわらず、社会人になったらまるで使えなかったという話を最近たびたび耳にするが、それは得点力ばかりを高めてきた「死んだ学力」の生徒であった可能性は捨てきれない。

「得点力」ばかりに偏向した勉強は、確実にテストの点を高めるが、「学力」は激動しない。それでも生徒は「学力」と「得点力」が同じだと思っているため、「自分には学力がある」と思い込んでしまう。それが使えない「死んだ学力」だということを本人が思い知るのは、社会に出てからのことだ。

この「死んだ学力」を野放しにして「学力崩壊」の瀬戸際まで追いやっているのが、親に蔓延する「テストの点=学力」という共同幻想であり、「得点力」を高める勉強方法こそが本当の勉強方法であるという誤った認識なのだ。


(続く)

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