【第2回】 「死んだ学力」を回避する |AI時代の学力とは何か
単に「知識を持っていること」の価値は、これから急速に相対化される。知識検索・要約・整理・翻訳・比較は、すでにAIが高精度で代行できるためだ。
しかし、その一方で、人間側には逆に強く求められるものがある。それは「読む・聞く・話す・書く」を通じて形成される「自己との対話能力」だ。
これは単なる国語力ではない。「自分の内面を言語化し、外界を意味づけし、自分なりの物語として統合する力」と言えるかもしれない。
人間は言葉なしでは自分を客観視できない。
──なぜ自分は怒ったのか。本当は何が怖いのか。何を大切にしたいのか。どこで無理をしているのか。何に違和感を持ったのか。
こうしたものは、感情のままでは曖昧のままだ。それを「モヤモヤ」と表現する人も少なくない。しかし、言葉にした瞬間、それらは対象化され、感情と事実が切り離される。
以下、「死んだ学力」P20〜25より引用する。
*「上がらない学力」とはどんな学力か*
では一体、「上がらない学力」とはどんな「学力」なのだろうか。
それは一言でいえば「国語力のない学力」ということになる。
「目に見える」テストの点を上げようとする時、生徒に勉強に必要な最低限のやる気と集中力があれば、「国語力のある生徒」は圧倒的にその伸びが違う。「目に見えない」学力も、それに引っ張られるようにぐんぐん上がっていく。
逆にいえば、「国語力のない生徒」は一般的に「目に見える」成績が伸びにくく、さらに「目に見えない」学力となると、ほとんど上がる見込みはないといってよい。
「国語力のある生徒」は、中三の夏休みから受験勉強を始めても、あっという間に「小学校から塾に通っている生徒」をごぼう抜きにしていく。詳しく後述するが、これは「小学校から塾に通っている生徒」には「国語力のない」場合が多いからだ。皮肉だが、むしろ小学校で何も習っていなかった生徒の方が国語力が高いことが多々あり、英語に関しては特にこの傾向が強く見られる。
ここで述べている「国語力」は、国語という科目での「目に見える」テストの点や成績のことではないことに注意してもらいたい。この「国語力」はコミュニケーションの基礎としての「読む・聞く・話す・書く」という四つの要素からなる力のことを指す。
この「読む・聞く・話す・書く」ための力は全て「学力」の下地となるもので、本書ではこれを一般に認識されている「国語力」と区別して、「読む・聞く・話す・書く国語力」と呼ぶことにしている。
また、本書で使われる「学力」とは、世間一般で用いられている「単に勉強ができる力やテストで点が取れる力」のことではなく、膨大な知識の中から重要なものとそうでないものを判別し、知識を使って考えることができる力を「学力」としている。いわば「学力」とは本質を「学ぶ力」であり、その本質について自分なりの考えを持てる力をいう。
これは勉強に限らず、生きていく上で欠かせない力だ。仕事、趣味、勉強などの人生にまつわるものの中には、人間の情報が全ての細胞の遺伝子に組み込まれているように、生徒のエッセンスが含まれている。義務教育における勉強とは、その人生のエッセンスを「学力」という形で学ぶ最初の過程であるともいえるだろう。
*「学力」の基礎となる「読む・聞く・話す・書く国語力」*
「学力」の基礎である「読む・聞く・話す・書く国語力」の有無を判断するのに、私は次の四つの基準を設けている。
①活字が読める(活字の意味を理解できる)
②他人の話をしっかり聞くことができて、それを理解できる
③自分の考えを言葉にして、他者(特に目上の人間)と会話ができる
④自分の考えを文法的に正しい文章にして表現できる
①の「活字が読める(活字の意味を理解できる)」という条件を満たしている生徒はどれほどいるだろうか。
子供達の活字離れが叫ばれて久しいが、現在の小中学生はその影響をまともに受けている。今の高校生の七割が一ヶ月に一冊も本を読まないという報告があるが、小中学生に至っては、恐らくその割合は九割をゆうに超えるだろう。
質の高い知識は、たいてい活字を通さなければ得られない。それを考えると、活字を正確に読みとれないのは、致命的なハンデとなって生徒の肩に重くのしかかる。数学を苦手とする生徒でさえ、その苦手の原因を突き詰めていくと、数学の考え方や解き方ではなく、問題文が何をいっているのかわからなかったということが驚くほど多い。
②の「他人の話をしっかり聞くことができて、それを理解できる」は、何より性格的な要因が強く影響している。これは、人の話を聞く姿勢や心構えが生徒に十分躾けられているかどうか、ということだ。
人の話をしっかり聞くことができなければ、当然その内容は理解できない。これを「学級崩壊」を引き起こしている直接的な原因として挙げる人もいるが、それが「学級崩壊」だけでなく、「読む・聞く・話す・書く国語力」という「学力」の下地も「崩壊」させていることに注目してほしい。
この事実は、「学力」は勉強以外の要因にも左右されることをはっきりと示している。
③の「自分の考えを言葉にして、他者(特に目上の人間)と会話ができる」という点は特に重要だ。
会話は自分一人でする勉強とは違い、相手がいる。その相手との距離をはかりながら、相手に通じる言葉で話さなければならない。これは人間関係を円滑に保つうえで欠かせないことであり、これができないと社会的に「使えない」人間とされてしまう。その意味では、四つの中でも最も重要であり、かつ高度な力であるということができる。
今の生徒がこれを苦手としているのは、会話によるコミュニケーション不足にある。ある話題について論じたり、自分の考えを説明できる生徒の数は、目に見えて減ってきている。
④の「自分の考えを文法的に正しい文章にして表現できる」に関しては、他に比べるとまだましだ。これは小学校での作文学習が、一応の結果となって現れているからだろう。
だが、それもよく読んでみると、形だけ文章の体になっている場合がほとんどで、ただ自分の考えや体験を一方的に書き綴っているだけだということがすぐにわかる。表現や言葉の乏しさがいたるところで目につき、全体的に文章が稚拙。自分の考えがないため、中身のない文章になっていることが大半だ。
AI時代の言語化格差
人は感情に飲み込まれている状態を言語化することによって、「自分は今、不安を感じている」と言える状態へと移行させることができる。そのとき初めて「自律」に近づく。そしてこの力の土台が「読む・聞く・話す・書く」国語力といえる。
AI時代には、「読む・聞く・話す・書く」国語力が極端に広がる可能性がある。AIを道具として使える人の条件は決まってくるからだ。問いを立てられ、自分の考えを整理し、違和感を言葉で表し、他者と意味を共有できる人。そのような人が自律へと向かう。
しかし、自分が何を考えているかわからない、何を聞けばいいかわからない、他者の話を理解できない、言葉で整理できない状態では、AIは依存に適した「便利な検索機械」で終わってしまう。
つまりAI時代は、「知識格差」よりも、言語化格差・意味化格差・自己対話格差を拡大させるだろう。これは自律的な人々はより自律的になり、依存的な人々はより依存的になる構造を示唆している。
AI時代の学力
依存的な人々は、正しさを外部に求めやすい。周囲との同調を重視し、「自分はどう考えるか」より「どうあるべきか」が強く、評価されることへの感受性が高い。
この段階の人にとってAIは「正解をくれる存在」になりやすい。AIに聞けばいい、AIが言っていた、AIの答えが正しい、自分で考えるより効率的という方向に流れやすい。これは「思考の外部委託」と呼べるかもしれない。自分で意味を構築するのではなく、「意味を受け取る側」になる。
他方、自律的な人は少しAIとの関わり方が異なる。その段階の人々は、自分なりの価値体系を持ち、自分で問いを立て、外部の意見を素材として扱う。思考実験の相手や仮説検証装置として捉える。「AIに答えをもらう」のではなく、「AIを使って自分の思考を深める」方向へ行きやすい。AIの意見を参考にはするが、委ねない。
AI時代に本当に重要になるのは、単なるITリテラシーではない。自己対話能力、問いを立てる力、他者と対話する力──そして「自分はどう生きるか」を考える力。「読む・聞く・話す・書く」国語力は、その力の礎となる。
(続く)