【第1回】 「死んだ学力」を回避する |ゆとり世代のその後
2000年9月、私は「死んだ学力」という本を出版した。当時の私は31才。友人と共同で学習塾を経営していた。ちょうどその頃、「ゆとり教育」が社会の関心を集めていた。「死んだ学力」を執筆したのは、ゆとり教育への警鐘を鳴らすためでもあった。
その後、ゆとり教育を受けた子どもたちは、「ゆとり世代」と呼ばれるようになった。現在の20才後半から30才後半がその世代にあたる。家庭を持ち、子どもの親となり、企業の管理職に就いている例も珍しくない。
親となったゆとり世代。管理職となったゆとり世代。私は「ゆとり世代のその後」と今も関わっている。「ゆとり世代の親」や「ゆとり世代の管理職」のコーチとなる一方、その子どもたちや部下も教えている。
このブログでは、「死んだ学力」の内容を引用しながら、ゆとり世代の子育てや部下育成にとって必要な「学ぶ力」とは何か、どのようにしてそれを「生きた学力」として継承できるのかについて書いてみたい。
この本が出版された25年前とは異なり、今や「学力」の知見は出尽くした感がある。子どもが「死んだ学力」を回避する方法は書籍やネットに溢れている。部下のマネジメントの方法もすぐに手に入る。「正解」の情報は溢れている。
しかし、実際には思ったようにうまくいかないケースの方が多い。もしかしたら、ゆとり教育は一番肝心な「人間理解に対する学力低下」を招いたのかもしれない。
以下、「死んだ学力」P12〜14より引用する。
第一章 「学力低下」ではなく「学力崩壊」が始まっている
*「学力低下」という表現が招く誤解*
小学校レベルの計算ができない「一流」大学生の存在がクローズアップされ、「学力低下」の話題が頻繁にマスコミで取り上げられるようになって久しい。だが、これほど「学力低下」が報じられるようになっても、親の間にはそれほどの危機感が浸透していないように感じられるのは私だけではないはずだ。これは「学力低下」の「低下」という表現に原因があると思われる。「低下」にはどこか「やり方次第で学力は向上する」という希望を含んだ響きがあり、それが一般の人々に事態の深刻さが今ひとつ伝わっていない原因なのではないだろうか。
つまりこうだ。
「学力低下」といってもそれは一部の例外に過ぎないだろう。勉強ができない子供はいつの時代にもたくさんいたし、多少その割合が増えているからといって、鬼の首を取ったように騒ぎたてるのはおかしい。大学生で分数や小数の計算ができないのは特殊なケースなのだから、それをあたかも学生や生徒全員ができないように報道するのは過剰報道だ。みんな勉強をしていないだけで、勉強すればわかるようになる
このあたりが世間の「学力低下」に対する率直な気持ちではないだろうか。とりわけ最後のくだりにある「みんな勉強をしていないだけで、勉強すればわかるようになる」は、多かれ少なかれ、親であれば誰もが感じることかもしれない。「ウチの子はやればできる」と思う親が多いのは、その何よりの証拠だ。
確かに一昔前までは、「やればできる子供」はたくさんいた。後述するが、このタイプの生徒は勉強の仕方を教えれば、目覚ましく成績は向上した。
言い換えれば、その生徒にはもともと「高い学力」があったことになる。
しかし、今やその「やればできる子供」は急速に減ってきており、それに代わって「上がらない学力」が台頭してきている。
実は、この二つの現象は、全て同じ原因に端を発しているのだ。
*「上がらない学力」の生徒は「勉強ができない」生徒なのか*
ある程度経験を積んだ塾講師なら、初めて教える生徒でもそれほど時間をかけずに、その生徒が「勉強ができる」生徒か「勉強ができない」生徒かのどちらかを判断できる。
「勉強ができる」のも「勉強ができない」のも、生徒の頭の回転の早さや勉強に対する先天的なセンスに負う部分が大きいというのが、長年生徒を教えてきた者として抱く偽らざる感想だ。人間もまた一生物であり、個体差がある限りは、勉強に適した生まれながらの能力は歴然と存在すると考えるのは理にかなっている。
だが、「勉強ができる/できない」は、勉強に対する「向き不向き」でもある。「不向き」とされる「勉強ができない」生徒でも、生徒にやる気があって教え方が良ければ、たいてい「学力」は伸びる。
ところが、現在の中学生に蔓延しつつある「上がらない学力」は、「勉強ができる」生徒と「勉強ができない」生徒の両方に万遍なく見られるものだ。このことは、「上がらない学力」は、先天的な資質というより後天的な環境によって形成されることを示唆している。
ならば、生徒を「上がらない学力」にしてしまう決定的な要因とは何だろうか。それは、どのようにして生徒の中で形成されるのだろうか。
「生きた学力」を子どもに授ける親の関わり
感情的な子育ては、親の今の顔色読みに子どものエネルギーが費やされ、自己が育ちにくくなる。怒る人が勝つ、泣く人が強い。感情的な人間が場を支配することを観察により学ぶため、感情に振り回されるようになる。将来的にメンタルに課題を持ちやすい。
子どもを「自分の延長」として扱う子育ては、条件付きの愛情となる。子どもの存在そのものではなく、成果や従順さに価値が置かれ、子どもは「できる自分しか愛されない」と学習する。勝ち負けにこだわり、本心を言えない人格形成がされやすい。何者かでなければ愛されないという不安が肥大し、将来的に自己喪失感が生まれやすい。
「良い親でありたい」と願う子育ては、共感や優しさという安心感のある関わりとなる一方、「嫌われたくない」や「間違いたくない」という社会的自己に支えられているため、他者の評価を常に気にする。そのため、必要な叱責ができず、過干渉になりがちで、子どもの感情に巻き込まれやすい。愛情深さゆえに、「子どもの人生=自分の価値」となりやすい。子どもは親の態度からそれを学習することで、「自分がどう思うか」よりも「自分がどう思うか」を優先し、「本当の自分」が分からなくなる。
これらを理解している親は、「子どもは自分とは別の人間である」という子育てを行う。子どもの感情・意思・適性・人生を尊重する。そのため、「境界線」と「愛情」が両立しやすい。共感するが、ルールは守らせる。気持ちはわかるが、責任は引き受けさせる。情理のバランスが取れるようになる。
親が子どもに巻き込まれるのではなく、「自分は今、何のためにこの言葉を使うのか」を観察できる。怒りをぶつけるのではなく、成長のために伝える。親が自分の感情への介入ができる。子どもは「存在そのものに価値がある」と感じられるようになる。
親が答えを押し付けるのではなく、自分で正解を考えさせようとする。そのため、「生きた学力」が育ちやすい。成熟した子育てを実践している。
しかし、この親も不安を抱えている。子育てが自分の信念体系に強く依存しているため、理想主義や完璧主義に陥りやすい。良い哲学ではあるものの、ときに子どもの発達段階を超えた子育てになることがあり、子ども自身が「正しさ」に息苦しさを感じることがある。
+と−とゼロ。この三つの組み合わせで人を育つ。自動車が道路に応じてギアを変えるように、子どもの発達や状況に応じて使い分ける。人間の成長には「局面」が存在する。それは派手なイベントとは限らない。むしろ日常に何気ないやりとりや会話に潜んでいる。その「局面」を構造的に見極め、押す・引く・見守る、アクセル・ブレーキ・ニュートラルを使い分ける。
ゼロを使う局面を見抜き、さまざまなゼロを使う。そのゼロは不作為ではなく、観察という静的な作為をいう。それはプラスよりも遥かに能動的な行為である。それは「見守り」とも呼べる。+と−の比重よりゼロの比重が増えたなら、揺るぎない余裕が生まれていることを意味する。
2026年5月26日
(了)