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情理をまとう〜To the mentors of the future〜

共感は情理を超えない。「情」を共感・思いやり・感受性・人間理解、「理」を論理・判断・構造理解・客観性であるとするならば、相反する二つを相剋させず、統合しようと試みる。共感の限界を知った者は、情理をまとおうとする。

共感は優しさに似ている。経験なしに誰でも持てる。しかし、情理は「情」と「理」という両極を生き切った経験を求める。どちらも万能ではないと身体で理解した者だけに、情理はそれぞれ宿る。そのとき自我は防衛から統合へ移行しようとする。自分は周囲からどう見られているか。その不安は薄れ、全体にとっての最適解を無意識のうちに探すようになる。

情理をまとおうとする者は正しさを振りかざさない。正論を知ってはいても、相手の受容可能性を読み、ときに知らないふりをする。冷たく見守ることも、温かく突き放すこともできる。

情理をまとおうとする者は怒りを情報の一つと認識する。怒りが湧いた理由を内省できる。怒りを相手に対する武器にせず、自分に向けるナイフにもしない。単なる羅針盤として使う。

情理をまとおうとする者は矛盾を抱えたまま行動できる。白黒をつけず、曖昧さを抱えたまま決断できる。稚拙な拘りや衝動的な感情に縛られることなく、揺らぎという自由に自分自身を解き放つ。

情理は他者の未熟さを炙り出す。その未熟さを理解できてしまう孤独を、情理をまとおうとする者は知っている。その孤独は共感で消えることはないと気づいた者は、情と理の統合を試みる。それが正解かどうかはさておき、その道程で生じる葛藤がメンターとしての深みを与える。

2025年12月26日

(了)

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