「親の背中を見せる」子育て
「親の背中を見て子は育つ」という諺を耳にする機会が減った理由を紐解くと、子育ての本質が見えてくる。
子どもは成長の道程において、親は人間として未熟で不完全な存在であると悟るようになる。しかし、親が自分と他者への寛容さを伝える子育てを心掛けると、子どもは親の未熟さと不完全さを「人間らしさ」に書き換える。
完璧な人間はいない。少なくとも誰かにとっての完璧さは、それ以外の人にとっての完璧さとは限らない。子どもが信じる完璧な親の姿と、親が思う完璧な親の姿が重なる方が珍しい。
物事は受け手の認識次第で解釈が変わる。親が完璧な親を演じていると自認しても、子どもの目には未熟で不完全この上ない人間として映っているかもしれない。その意味でも完璧な親を目指すことは独り善がりを超えない。
親としての完璧さの追求が、子どもを親の意に沿うようにするための威厳を獲得するためだとしたら、その不完全さも未熟さも子どもに見透かされる。子どもは大人の庇護なしには生きられないため、大人の器の大きさを瞬時に察知する力が備わっている。大人にとって有用な人間が、必ずしも子どもの信頼を得られるわけではない理由もここにある。人間に対する畏怖の度合いが、その人物の器の大きさを決める。
人間を知れば知るほど、人間を畏怖せざるを得ない。そこには当然、子どもも含まれる。企業であれ、学校であれ、家庭であれ、人を導く責任の重さを認識した者はみな、人間を知ろうとする。人間を知らなければ、率いることも、導くことも、育てることもできない。その事実を突きつけられる。
畏怖は敬意につながる。敬意とは傅くことでも、媚びへつらうことでもない。子どもの機嫌に振り回される親は、やがてその遠心力で自分の軸を失う。その時点で、親は父親や母親という属性に依存する。
親は人生に数多存在する役割の一つである。人生の目的が見えなかった人間が子育てに使命感と生きがいを見出す。確かにそれ自体は尊い。しかし、その尊さに依存せず、子育てを通じて人間とは何かを知ろうと努める姿が「器」を大きくする。それが自分の子どもを知ることでもある。
子どもは器の大きい人間、格の高い人間の前では素直になる。その生き方を学ぼうとする。親の特権は、一人の人間の生き方を間近で見せられることにある。親の生き方を背中で見せて育てる。子どもはそこから生き方を学ぶ。親子という関係性はこの上なく特別な関係である。
2025年8月21日
(了)