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自分軸を持つ人々

自分軸を持つ。それは他者の価値観に依存せずに生きることをいう。その軸は思い込みやこだわりという認知の歪みによって出現した特異点同士をつなぐものではない。真の自分軸は自分を不自由にはしない。当然、すでに存在している権威に盲従するものでも、世間に根ざした人間関係にも依存しない。

自分軸を持つ人々は、自分が選ばなかった別の人生に憧れない。無論、他人の人生にも羨望の眼差しを向けない。後悔や嫉妬に時間を奪われない。彼らの生き方は自分軸を持たない人々には正論のように映るため、生き方の逃げ道を奪う。彼らは共同体の暗黙のヒエラルキーに怯まないため、自分軸を持たない人々は彼らを異類とみなし、「変わっている」という言葉を貼り付けることで、自らの感情を調整する。

自分軸を持たない人々は自分自身に不満と不安を抱えながら過ごしている。それゆえに、他人軸に自分の人生を委ねている。自らの人生の選択が現実となって生活に迫り上がり、不満と不安を可視化させる。自分軸を持つ人々は、そうではない人々にとってアンチテーゼでもある。そうではない人々の中には、自分軸を持つ人々の行動を模倣し、成長という名のもとに自分軸を持つ側へのシフトを試みる者もいる。

軸には大きく、空間軸と時間軸がある。自分軸を空間軸と重ねるか、時間軸と重ねるか。両者は似ているようで異なる。空間は現在の制度と人間関係によって構成される。空間軸に自分軸を置くということは、現在の他者に対して異類になるということでもある。比較対象はあくまでも他者だ。一方、空間軸に自分軸を合わせることは、未来と過去の自分の対象化を意味する。他者を意識しない分、異類にならずに済む。

一概に自分軸を持つとはいっても、他者との比較は無自覚な行動様式にも染み付いているほどに根深い。他者との比較からの解放が自由だとすれば、比較対象を未来と過去の自分にするしかない。おそらく何者とも比べないことは現実的に不可能であり、仮にそうであったとしたら、その人々は独善的で利己的な沼に首までどっぷり浸かっている。

人間は共同体で生きることを義務付けられた存在である以上、人間関係を円滑に運ぶための共感は不可欠である。しかし、共感と依存、共感と盲従を錯覚してしまうと、努力と我慢を履き違えてしまう。真の努力は我慢を伴わずに時間軸を駆け上がるものだが、自分軸を持たない人々はそのことに気づきにくい。常に何かに怯えて暮らすことになる。その怯えは時に怒りへと転じ、自己や他者をさまざまな形で攻撃する。

2026年1月4日

(了)

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