教え子たちの物語
「私って、小6のとき、誰のこと好きだったっけ?」
高校生になった女子生徒が尋ねる。私が即座に答える。名前だけでなく、その生徒がそれを打ち明けたときの様子を詳細に再現すると、一様に彼女たちは驚く。
ある種の女子生徒たちは恋愛話をこぞって打ち明けてくれた。気になっている人、好きになりそうな人、好きになった人、彼氏になった人、結婚を考えている人、結婚することになった人。節目ごとに話してくれる。わざわざ相手を連れて結婚の報告をしに来てくれることも少なくない。
恋愛話に限らない。私にとって印象的なエピソードは男子生徒や女子生徒にかかわらず、その物語を覚えている。物語ほど強固な記憶はない。
「そうでしたっけ?先生、よく覚えていますね!」
しかし、言われるほど私は記憶が得意ではない。最も定着するのはエピソード記憶であるとすれば、私は生徒とのやりとりを自動的にエピソードに変換する習慣が身に付いているのかもしれない。映像となって、まるでさっきの出来事のようにありありと再生できる。
もう一つの理由として、ひとりの生徒を何年も長く教えていることも挙げられるかもしれない。長いだけではなく、授業時間も多い。一週間に5時間の授業も珍しくない。それを1on1で行う。
とりわけ女子生徒にとっての「自分のこと」は自分の感情であることが多い。感情がへばりついた出来事を言語化する。それに耳を傾ける。結果的に私は、彼女たちの授業を1on1で多く任せてもらったことで、傾聴の機会が増えた。
思えば、1on1以外でも、数えきれないほど多くの生徒の話を傾聴してきた。その時間に比例してエピソード記憶が増えた。それは同時に、生徒たちの物語が生まれることでもあった。物語は「自分自身が物語である」と自分自身が認識するか、誰かに物語として叙述されるかのどちらかの形式でしか存在しない。
誰かに物語として叙述されたとき、その人は名前だけの記号的な存在や出来事のところどころに顔を出す断片的な存在から、物語の主人公としての「確かで揺るぎない存在」に昇格する。単にある時期、成績を上げるために「生徒を演じていた存在」から、「自分自身を言葉にして伝えようとする存在」へとメタモルフォーゼする。
自分自身を言葉にして伝えようとした生徒たちは、私を「先生」と呼ばなくなる。生徒を演じる必要がなくなったからだ。恐らく、すでに授業の勉強の記憶の大半は失せているだろうが、本心を打ち明けた「物語」はこの先も、どちら側にも残り続けていく。
傾聴の記憶とは、双方が共有する「物語」である。それは、お互いが確かにその時期そこに揺るぎなく存在していたことを記す叙事詩のような叙情詩なのかもしれない。
(了)
