少子化時代の子育て
2025年2月、厚生労働省は速報値として、去年生まれた子どもの数を72万988人と発表した。これは国立社会保障・人口問題研究所が2023年に発表した将来推計に照らせば、2043年に69万2千人に達すると予測されていた水準に近づいており、20年も早い進行となっている 。
このペースで少子化が進行すれば、今年生まれる子どもが46歳になる2027年には年間の出生数が8万人程度という試算もある。これは人口構造の「臨界点」突破を意味しており、経済縮小は当然として、年金・医療・介護制度の破綻的負担や地方の消滅と社会インフラの維持不能という深刻な事態を招く。
個人的経験に基づいた希望的観測や子どもの自己責任では到底解決できない環境となるのは確実のようだ。その頃に親となっている子どもの不安に思いを馳せるというのは、少子化時代の子育てには不可欠な視点であるように思う。
遺伝と環境が子どもの成長に影響を与える割合は研究よって異なり、知能・性格・学業成績・精神疾患のリスクという項目ごとにも差がある。これらを平均化して「遺伝:環境=50:50」とした場合、環境そのものである子育ては子どもの成長に50%の影響力を持つことになる。
子育てが環境そのものであると規定されるのは、子どもの衣食住を含めた環境の選択権は親が持っており、子どもには選択権がないからだ。子どもに自由裁量を与えるという方針そのものも、親が作り出す環境の一部である。
近年、遺伝子の発現調節やエピジェネティクス(後成遺伝学)という分野の研究が進み、特定の遺伝情報の発現や活性化は環境によって大きく左右されることがわかっている。遺伝子が設計図だとするなら、環境はその設計図のどこを使うかを決める指揮者のような存在である。
別の例えを使うなら、遺伝情報は子ども固有の種類豊富なスパイスだと言えるかもしれない。親は環境という「調合」を通じて、特定のスパイスを選び、その量も決定する。その調合と調理の過程が環境という子育てになる。
調合と調理に不安を抱えているシェフに対して、周囲が寄り添い共感を示しても、それは即効性のある一時の対処にしかならない。点と点の対処を線で繋いでいく中でスパイスの量を調整していくことになる。
しかし、味の深みはスパイスの量ではなく、スパイスの種類によって決まる。シェフの盲点となるスパイスを用いることで単調だった味に変化が生まれる。先輩シェフから教わったスパイスの組み合わせから解放されることによって自分の店の客層や時代に合った味を生み出せる。
環境も遺伝する。親もまた自分の親が作り出した環境を真似る。親からされて嫌だったことを自分の子どもにしてしまうことは珍しくないが、まさにそれは環境の影響力の強さを物語っている。
過去の記憶と現在の自分がもつれている。再現性を持たない過去の記憶を再現しようとすればするほど、現在の自分ともつれていく。そのもつれを解くことを解放という。それが少子化時代の親の気づきかもしない。
少子化の度合いと反比例して、子どもには解放と逆のベクトルが向く。守ろうとすればするほど、閉じていく。スパイスの数も、設計図の読むべき場所も限られていく。同質の子どもたちが占有するコミュニティでは、子どもの隠れた力が偶然発現する可能性は低い。
偶然という特異点は環境の内側には見当たらない。少子化とは環境の外側において、発現のきっかけとなる特異点が失われていく状態をいう。その意味で、特異点と出会うための経験を意図的に与える必要がある状態とも言える。しかし、その経験もまた親の環境から選択される。
かつては親がもつれたまま子どもを育てることができた。家庭外に特異点は無数にあった。異質な存在が数多に散らばり、普通に生活しているだけで人生を変えるような異質な経験に遭遇することも珍しくなかった。同質からの解放は容易だった。異質なものに対する好感を学んだ。異質なものを取り込む過程の中で、自分の可能性を発現させた。
おそらく同質だけを選択して生き続けることが可能な時代になっていくだろう。不快なものを排除し続けられるような仕組みが出来上がっていく。
しかし、一時的な快という点と点を線で繋いでいく先に、震えるような充実感を味わえる体験と出会うことができるのだろうか。多幸感や充足感につながる体験に人生の意味があるのだとすれば、それは文字通り、深みのあるスパイスの助けが必要なのではないだろうか。
2025年4月12日
(了)